修正したほうがよいかもしれない瑕疵にたいし修正するかどうか、する場合どのような形にするのか、また修正したことや修正しなかったことについて作外で説明するのか・どのように説明するのかということとはまたべつの話
世に出た作品があとから修正・変更されるというのは、それがたとえば明らかに「良くなっている」修正・変更だったとしても、それを見た人のうちいくらかには痛みを伴うものなのだ
だから作品が世に出るなら修正・変更されるべき瑕疵をもたずして修正・変更されずにいるのがいちばんよいこのなのだと思う
なんらか作品が一度世に出て目に触れ、それに心が動くと、「私の心が動いた作品」としてそれは私の心の棚にしまわれて私のものとなり私の一部となる。
それがのちほどなんかの理由にて世に出た作品が修正などされてしまうことは、私の一部を消されてしまうような痛みをともないやすいものなのだと考えています
こういうのって今までは、「うわ~さすがにないわ、ないない」とはじめからわかってるようなできごとや表現・知った当初から「言っちゃだめな語」として教わっている語、というのに対して使われているものという印象なんだけど、それが「私が小さい頃はOKだったもの」に対して脳内で発生するようになったな
BAROQUEリポートを読んでいたら、ちょっっっっと今の感覚で読むにはキツいなという文章(心読みの者が老婆であり、つまり年老いた女性であることを出発点とした侮辱的な文)があり、「作中、現代では不適切と思われる表現がありますが、当時の文章そのままを保存するという目的にしたがい修正などはせず載せます」というテロップが脳内に流れた。
楽しいことやってるはずなのに楽しくないよおってときは、やろうと思ってることが他にあるんだけどそれをやるコストが高いなどで後回しにしているという自覚があるときな気がする。私の場合
2021.08.01 18:24
映像作品を観たい…けどリソースは使いたくない…けど動いてるものがあると自動で視界と脳のフォーカスが合っちまう
視覚入力装置(目)と処理装置(脳)の性能が釣り合ってない可能性あるな……
と思ったので視界狭めグッズを自作してあれこれ試しています。どれくらい効いてるかはわからないがなんか安らいだり集中できたりしている気がする。
さいごまでそういう展開で全てが解決されるとは思ってない(作中、誰も悪くないがうまくいかない、というケースは減っていない)ので、そういう心配ではないのだが なんかテコ入れを勝手に想像しちまうなあみたいな!
あとは、「わるいやつ」をボコボコにして捕まえてヨシ!な展開が、とくにレゴシが働きだしてから増えた感があり、それはあんまり好きではないなと思う。
バトル解決がきらいというよりは、おはなしが語ろうとするものをバトルで解決はあんまりしてほしくないなという個人的な願望。
レゴシと全然関係ない人の生活・できごとに触れる回になると「おっ」てワクワクするから、短編集のほうが好みな可能性があるな。
レゴシは好きなんだけど週刊連載で毎話ヤマ場をつくりながら長期間追うよりは短編で見たいテーマというかんじ
戯画だからめちゃめちゃざっくり切り分け簡略化してるところや、ここどうなってんのとツッコミを入れたくなるところもあるが、そういうふうにツッコミたくなるというのはむしろ想像のしがいのある世界だという気もするね
ゲームは一日1時間(配信を覗く)の人になろうとおもう
なろうとおもうが、そういうのはいろいろ元気なときでないとうまくできず、目標だけ立ててしまうと「目標を達成できなかった」というつらさが無限に積み上がることになる
もうちょい様子見すべかなあ まだ心身の調子はよくない。
なんかやるときに「音楽がないとむり、動画が流れてないとむり」みたいになってるとき、
なんかの情報が入ってくることを欲しているというよりは、意識外の情報が多すぎて混乱している(ので意識できる大きい情報を存在させることで無意識情報をマスクする?)可能性がある